東京の笑い・関西の笑い・東京の笑い大阪の笑い1その表現方法の違いについて 現在東京と大阪は物理的な距離は昭和40年の頃と変わらず離れていますが、時間的側面で考えると1日で往復できますし、全国ネットの番組も相当数ありますから、「活躍している芸人さんに以前ほどの違いがあるのか?」といったら、ないのだと思います。 ただ、それを承知の上でキャラクターの作り方などに絞ってみますと、それなりに違いが見えてきます。 具体的には 東京=表現が模写的である 関西=表現がデフォルメである 具体的な芸人さんであげると タモリさん・関根さん・とんねるず・ナイナイ=東京風 さんまさん・たけしさん・ダウンタウン・藤井隆=関西風 と言えるのではないでしょうか。 ここで、どうして、たけしさんが関西風でナイナイが東京風か、出身地とは違うじゃないか、と思われる方もいるでしょう。 これは、多くの場合、出身地の影響は大きいのですが、状況により、これが必ずしも一致するわけではありませんし、また、最初に述べたように大阪と東京の時間的距離が縮まりましたから今後は、今まで以上にその「差」がなくなるものと思われます。 で、どうして、たけしさんが関西風=デフォルメしたキャラを多用するようになったかを考えるに、「ツービート」で、一世を風靡した時代は、漫才ブームで関西から多くの芸人さんが東京に流入してきた時代でもあります。また、伝説の番組、「おれたち・ひょうきん族」は各人が強いキャラをアピールする番組だったことも大きいのではないでしょうか。。 また、たけしさんの中に内在する東京風=模写的な表現は、その後の映画作品の中に現れていると考えると面白くないですか? では、ナイナイはどうでしょう?NSCで、先輩に当る「雨上がり決死隊」が、東京に進出するまでに約10年という時間を要したのに対して、ナイナイが実際関西だけに拠点を置いていた時間は短く、芸人として関西色に染まらなかったとも考えられます。また、矢部さんの高校時代の文集には将来の目標芸人に既に「とんねるず・ウッチャンナンチャン」があげられており、素人の時代から東京の芸人さんの影響を受けていたことが分かります。 このことで、最近注目なのは「中川家」であります。 番組をみていると彼らのネタの中には関西芸人なのに模写的=東京風なものが多いことに気づくかもしれません。これは、ナイナイが東京風だというのとまた違った発見があります。 彼らが行っているのは、 一般人をデフォルメして、抽出した部分を表現の段階で表現の段階で「模写的」に行っているということです。もうちょっと、ファンのために説明しますと 彼らのネタの登場人物には「○○なおっさん」「××しているおばちゃん」 というように名前がないんです。これを、表現もデフォルメにすると「オバタリアン」になるのです。 抽出されたコアな部分を模写的に表現する。ちょうど、東京風と関西風の折衷案的とも言えます この「中川家」の表現方法と似た方法を取っているように思える関東の芸人さんに「イッセー尾形」さんがいらっしゃいます。しかし、彼のネタに登場する人物の作り方は個人への深い洞察があってそこから生まれる普遍的なくせをネタにしているように思えるんです。 ですから、彼のネタに登場する人物には名前があり、職業があり、生活が見え、 「あ~~こんな人いるだろうな・・・」という感じを観客にあたえるのです。ですから、ショートコントみたいなスタイルでも、この感想は変わらないでしょ それに対して、中川家のキャラはスパンと短く台詞も一言で 「こんな人みた!」という感想を生むのです。 2表現の違いを生んだ要因 このような表現方法の違いを生んだ背景を考えるにあたり、それぞれの表現手法が持っているメリット・デメリットを考えるとぼんやりながらもその背景が見えてきます。模写的な表現手段はどうしたって細かい表情や仕草に笑いを作り出す要素を持たすことになります。これは端的に言いましてカメラによって接写が可能なテレビか100人規模の狭い劇場でお客さんと舞台の距離が条件の表現手段となります。 それに対して逆にデフォルメされた表現手法はNGKの様に大きな劇場の後ろの席の人にでも伝わる表現手法だと言えます。さらにデフォルメのメリットは表現したい対象の一番濃い部分を抽出する手法ですから、ベタではあっても多くの賛同者を得られるものをその表現対象とします。そしてこれが結果的に幅広い世代を笑いのターゲットにしなければならない関西地域では求められやすかったのではないでしょうか。 関東と言いますか東京では現在でこそルミネ等で、親子連れを見かけることも少なくなくなりましたが、それにしたって、関西のNGKの正月公演のように一家総出でじいちゃんも御母さんも子供も一緒に笑いを観に来るという状況は関東ではまだまだ少ないといえます。つまりそうしたことからも、関東では見る側のお客さんと演じる芸人との間に表現が模写的になったとしても十分伝わる状況であったと言えます。 コントと漫才 1概論 お笑いの形態について分析を行う時、まず行わなければならないのが「種類分け」の作業であり、その種類分けの段階で出てくるのが、 「コント」と「漫才」。これ以外のお笑いの形態として漫談、喜劇などが挙げられるのですが、 この場合、漫談は「一人で行う漫才」喜劇は「多人数で行うコント」とも分類することが可能であります。 また、お笑いを広く取って「バラエティ・寄席芸」とするならば、手品やモノマネも入り込む余地は有るのですが、 今回はお笑いというものに限定することで議論が拡散しないようにしたいと思います。 この両者のいずれにも該当しない笑いというものも確かに存在はするのですが、これはあくまでも例外的要素が強いです。 (exダイノジ「声に出して読みたい日本語」ラーメンズ「縄跳び」) 2形式的な違い Aコントの形式的な特徴 コントを翻訳しますと、「寸劇」となります。つまりその土台には「劇」が有るものと考えられます。 この劇であることの特徴を「漫才」との差異として挙げますと ・ストーリーとして時間軸が有る ・舞台に上がる芸人は小道具を使うこと、メイクをする事が可能である。 この2点が非常に重要な要素となっています。 それぞれを説明していきましょう。 まず、「ストーリーとしての時間軸が有る」ということですがコントは設定が用意され、その設定上にどういう人物を登場させるかという事がその笑いの全てといっても過言では無いのです。 このことがもたらす効果とは何でしょうか? 考えますに、時間軸が有る事により時間軸上の終了がコントが始まった段階で用意されているということです。 つまり、コントもその設定・そのキャラクターでず~っと続けていくことも可能なのですが、現実的には時間軸上終了時点がコントの終了部分となります。 また、キャラクターを変えずに設定だけを変える。キャラクターも変えず、設定も変えず状況だけを変える。など連続物を作る場合にはどうしたってコントの方が適していると言えます。 さて、具体的な作品を通してこの点についてもう少し話を進めていきましょう。 ア)キャラクター重視型 ペナルティ「サンタクロースがやって来た」 男の中の男サンタクロース(脇田)が少年(ヒデ)の元にやってくる設定。 この場合、通常の誰しもの頭の中に有るサンタクロース像と脇田が演じるサンタクロースとの差がストーリー上の笑いの全てであり、 このような場合、濃いキャラクターに対応する人物(この場合だと少年=ヒデ)は出来るだけ普通であるほうが、そのギャップを楽しめる構造になっています。 イ)設定重視型1 ラーメンズ「現代片桐概論」 この場合設定とは「舞台に出ている片桐さんが模型であり喋ってはいけない」という所の斬新さであります。 逆に言いますと、模型である事をどう説明していくかが笑いの中心にあると言っても過言ではないのですが、同時に「通常は舞台に上がった芸人は演技で喋るもの」を 覆す事がこのコントの肝となっている部分と言えるでしょう。 ウ)設定重視型2 ヴィジュアルバム「ずるずる」 動物病院における病気になった動物(ダウンタウン松本)と医者(今田こうじ)のコント。 この場合、通常喋らない動物が喋るという事がその設定の全てであり、同時に動物が喋っているという状況を普通に受け入れている医者がもたらす笑いなのですが、 同時に合成映像を使わず、遠近法で撮影しての登場人物(動物)の体格差を見せようとする手法も斬新と言えます。 エ)設定重視型3 トータルテンボス「ルミネ狂」 女性(藤田)の家に友人(大村)がやって来てたわいもない話をしていくというだけのコント。 なのですが、その友人の会話が全て芸人さんをもじった駄洒落で構成されているというストーリーになっています。 このタイプは最近登場し始めてきたタイプのコントでインパルスの「キセル」は浦沢さんの漫画「モンスター」であったりプラン9の本公演などもこのタイプになり 僕は「下敷き型」(観ている人がその下敷きとなっているモノを知っていることによって成立する笑い)と読んでいます。 だいたい大きく分けるとこの様になります。どの場合もオチという装置を使わなくても、時間軸・ストーリー上の終わりがそのままネタの終了だという点がポイントです。 続いて「舞台に上がる芸人は小道具を使うこと、メイクをする事が可能である。」という事ですが、これが端的に漫才とコントを見分ける上で最も簡単な判別方法の1つと言えます。 コントに於いては、小道具やメイクが芸人が説明しきれない部分を補完する構造になっています。 このことは、後に書きます「コントと漫才の本質的な差異」で説明をするのですが、コントの場合、<その世界(地球上にあるのかそれともこの宇宙のどこかにあるのか分からないが) では自然なもの>として成立している笑いがあるため、現実的でない部分を説明するのはそもそもが不自然となり、逆に変な間を作ってしまうのです。 しかし、こうしたことのデメリットは何でしょう? デメリットとしてまず挙げられるのが、メイクや小道具により設定上の縛りが生じるため、一度その設定で始めたのであれば、その設定から逃げられない。 また、当然小道具は一般的にお金をかければかけただけ良い物が作れるわけであり、制作費に余裕が無い為にかえって不自然な印象を与えるモノもある。 と言ったところでしょうか。 あまり議論はなされていないのですが、一流のコント師はその殆どがメイクが非常に上手であるし、小道具にこだわる方が多いのも事実です。 例を出して言うまでも無くそれは志村けんさんしかり、ダウンタウンしかり。 最近の若手でこれが上手なのは「劇団ひとり」「ペナルティ」を挙げておきます。 |